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2024年12月19日
Notionというアプリで作業ログを取っている。Notionを使うのは数年ぶりで、昔どんなふうに使っていたんだろうとみてみると、三日だけ日記を書いていたのを見つけた。まさに三日坊主だ。当時から朝起きるのに苦労してたり、猫背の強張りを嘆いたりしていて、変わらんもんだなと思うなど。以下、そのうちの1日の引用である。
2022年3月11日 午前0時
なんとか起きて歯医者へ行った。
タイムラインで見かけた和田彩花による「今夜はブギー・バック」のカバーを聞いた。「シェイク・イット・アップ」「ジューシー・フルーツ」と「生活」「充実」は、意図してか偶然か、韻を踏んでいる。この対比に全てが凝縮されている。
とはいえ、原曲であれこのカバーであれ、これらは彼らの言葉であって、それは世代感覚を表したものとまで言えるのか、私にはわからない。「その頃のぼくらといったら」とあるようにそもそもが回想であり、もう「その頃のぼくら」ではいられなくなっていたのかもしれない。だとすれば、そんな彼らにあなたたちの言葉を知らないということは。
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2024年12月18日
鶏そぼろ丼を二日分と思って作ったけれど、夜中にお腹が空いて翌日の分も食べてしまった。作り置きがうまくいったためしがない。
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2024年12月17日
前の日に早く寝たので5時前に起きた。ふだん寝ている時間だからか一日中ぼーっとしていた。どれくらい続ければ身体が慣れてくれるのだろうか。せっかくだから早く寝ようと思うものの、諸々の連絡や修正などしていたら結局日付を越えた。もうこの時間からは返信しない、と決めればいいのだろうけど。ままならない。
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2024年12月16日
ゼミの日。例によって寝不足で起き、さっとシャワーを浴びて朝食を食べる暇もなく大学へ。生協でチョコボールとレモネードを買ってきてとりあえずの栄養補給に、というのがルーティン化してきた。意外と夜までそれで持つのかもしれないと思いつつも、後輩の質問にぼやんとした回答をしてしまったので、早く寝て早く起きたほうがいいし、朝食はちゃんと食べたほうがいいと思った。自分の生活リズムとそのせいでひとに迷惑をかけることを天秤にかけて前者を取っていたのだけれど、その問題設定自体が間違っているのかもしれん、とも思うがわからん。帰宅して昨日の残りの鍋を食べて22時。眠気が来たので逃すまいと寝る。
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2024年12月15日
ここ1週間ほどずっと取り掛かっていた次回調査用の質問表作成がひとまず終わった。対象と要素が多く、Wordに慣れていないしで、同時並行的に考えなければならないレイヤーがとにかく多くてしんどかった。それ以外の仕事も差し込まれて、いったん離れると戻ってくるのがなかなか難しい。なにかいい方法はあるのだろうか。さしあたりメモパッドを脇に置いて、後回しにする作業や考え事を思いついたらすぐ書くようにしてみている。悪くはない。さて、明日からまた論文の執筆に戻る。年末年始で形にしたいがしかし。
いい加減、キャッシュカードか通帳を作り直しに行かないとだな。クレカを切り替えてなくて未払いですという、例えばSpotifyからなど、各種サブスクからのメールが溜まっている。ついにSpotifyのアプリにダウングレードしますという通知が来た。ということは今日までは一応、プレミアム会員だったんだ。料理中などにPodcastを聴いていると広告が挟まれていたのは、てっきり未払いのせいかと思っていたけれど、そうではなかったらしい。広告が聞きたくなくてお金を払うんだからそれはおかしいんじゃないか、と思ったが今月はいう資格がない。
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2024年12月14日
ある作家の作品の展示が明日までだったので、駆け込みで福岡市美術館へ(ちゃんと書きたいが眠いので後日加筆します)。
HIGHTIDE STOREという文房具屋に寄って帰る。卸されている国内のオンラインストアが軒並み売り切れで半ば諦めていたTezzo SUZUKIのカレンダーがまだ残っていて無事購入できた。ついでにと来年のスケジュール帳も買った。Minute Managerというものにした。小ぶりのハードカバーで、月間と週間とノートのシンプルなもの。週間の部分は、見開きの左側が日にちで右側がリーガルパッドのようになっている。リーガルパッドというのは、洋画のなかで出てくる左側に赤い縦線が入った黄色い紙のメモ帳のことだ。最終稿と区別がつきやすくするために黄色いらしい。手帳の紙色は白いので厳密にはリーガルパッドと言えないのかもしれない。紙色はどちらでもよく、あの赤い縦線があるとなんだか格好いい、ただそれだけの理由でこの手帳を選んだ。
帰宅して昨日の作業の続きを7時間ほど。とりあえず内容は終えた。大きく構成を並び変えないといけなくなったので、あと1、2時間で終わると思う。こういう見積もりをこれまでしたことがなかった。見積もりと実際にかかった時間の齟齬を埋めていくことを繰り返せば、作業の強度は自ずから上がっていくと思う。それはいいことなのだろうか。(作業を労働と言い換えれば)そのぶん合計の時間が減る、というのがマルクス経済学的な考え方で、でも実際には減ることがなくその差分(で産み出された価値)を資本家がピンハネするわけだ。だとしたら私は?